理事長挨拶
日本医療過誤法学会 理事長
金﨑 浩之
わが国には、日本医療過誤法学会が存在していますが、医事法は、医療事故・医療ミスに関する紛争(以下、「医療過誤」といいます)の分野にとどまらず、医療行政や生命倫理などを含み、医療に関連する法分野の全てを対象としています。言い換えれば、これまでわが国には、医療過誤の分野に特化した学会というものが存在していませんでした。
しかしながら、医療過誤に関する法分野は、医療過誤の有無をめぐる患者と医療機関との間で起こる法的紛争を対象とするものであり、他の医事法の分野とは大きく異なります。つまり、医療過誤に関する紛争は、医療機関による診療行為に医療ミスがあることを理由として、患者側が医療機関側に損害賠償を求めるという紛争であり、医療行政や生命倫理の問題とはその性質が大きく異なるのです。このような観点から、医療過誤紛争に携わる弁護士、医師、その他の医療従事者らによる掘り下げた研究が急務と思われました。そこで、本会は、医療過誤の分野に特化した研究を行うために設立されました。
現在、わが国の医療過誤紛争には、いくつもの問題点が横たわっておりますが、その主なものは次の通りです。
第1に、わが国で医療過誤紛争に関与する弁護士の水準が必ずしも高くはないことを指摘できます。その原因には、医療という専門性の高さも当然影響しておりますが、より根深い問題は、医療過誤紛争に関与する弁護士が必ずしも医療過誤紛争に専念できる執務環境にないことを指摘できます。取扱分野の全てが医療過誤紛争であるという弁護士はごく一部であり、多くの弁護士が、一般民事事件や企業顧問業務も兼任しています。要するに、高度な専門知識・経験が要求される分野であるにもかかわらず、わが国の弁護士の専門性は著しく遅れているということです。
第2に、この専門性の遅れは、弁護士だけではなく、裁判官にも基本的に当てはまります。東京地裁をはじめとする大都市部の地方裁判所には、いわゆる医療集中部が設置されておりますが、これは決して医療専門部ではありません。裁判所は約3年周期で裁判官の人事異動を行い、医療集中部には、通常部から裁判官が転勤してきますし、医療集中部で経験を積んだ裁判官は、他の裁判所の通常部へと転勤していくというのが実情なのです。要するに、生涯にわたって医療裁判に専念している裁判官はほとんど存在しないということです。ということは、医療集中部の裁判官が医療事件を処理しているのは、その裁判官が医療集中部に在籍している短い期間だけということになります。そうすると、医療集中部といえども、医療の分野に必ずしも精通しているとは言えない裁判官が、医療機関を被告とする裁判で事実認定を行い、医学的知見を吟味し、医師の鑑定・意見書を評価するということになります。このようなことでは、とりわけ専門家である医療機関を納得させうる判決を裁判所が下せるはずがありません。それでも医療集中部が設置されている裁判所はまだよいのですが、多くの地方都市の裁判所には、いまだに医療集中部さえ設置されておらず、裁判官が有する医学的知見はさらに大きく後退します。要するに、簡潔に言えば、医療裁判では、素人がプロを裁いているというのが現状なのです。
第3に、真に中立的な立場から医療問題を判断している専門家がほとんどいないというのが現状です。裁判に関与するいわゆる鑑定医は、形式的には中立性が担保されておりますが、医療関係者である以上、裁判の行方には強い利害関係を有しているはずだからです。医師の責任が肯定されやすい規範(ルール)を裁判例として確立されると、医療関係者としては今後の仕事に支障が出ます。そして、この中立性の欠如は、裁判に関与する鑑定医にとどまらず、弁護士にも当てはまります。今日、医療問題を手がける弁護士の多くは、患者側と医療機関側に色分けされており、患者側は医療機関を敵視し、医療機関側は患者を敵視するといった構図となっております。
第4に、弁護士会などが実施しているADRがありますが、紛争解決機能としての大きな限界を指摘できます。裁判制度を利用せず、第三者を交えて話し合いによる解決を図るADRは、その理念にこそ共感できても、紛争解決能力には大きな限界があると言わざるを得ません。というのも、医療紛争では患者側が高額な損害賠償を求めている場合が多く、真相を明らかにせずしてお互いが譲歩するのは容易ではないからです。また、中立性の確保も不十分です。多くの弁護士会では、患者側の弁護士と医療機関側の弁護士の双方を手続きに関与させて中立性を確保する努力がなされておりますが、足して2で割れば中立になるわけではありません。結局は、患者側の弁護士は患者側の視点で意見を述べ、医療機関側の弁護士は医療機関側の視点で意見を述べるに過ぎないからです。言い換えれば、患者側と医療機関側の対立が浮き彫りになるだけで、双方が納得できるような合意を形成することは困難となるのです。
これらの問題を解決するためにまず重要なことは、法曹実務家である弁護士や裁判官の医学的知見を高めることです。裁判所は、真剣に"医療専門の裁判官の養成"に取りかかるべきです。裁判官の間では、海外のロースクールへの留学が人気のようですが、そのような無駄なことに予算を充てるくらいなら、医療系の大学院に進学させて、医学博士の学位を取らせることを検討すべきでしょう。今日、医療機関側の代理人をされている弁護士の中に、医学博士の学位を有する者が増えてきております。そして、医療事件を手がける弁護士も、他の事件と兼任するのではなく、医療事件に専念できる弁護士を養成すべきです。そして、医療機関側の弁護士だけではなく、患者側の弁護士こそ医療系の大学院に進学させて、医学博士の学位を取得するという流れを作るべきです。なぜ"患者側の弁護士こそ"なのかというと、患者側の弁護士が医療機関側の立場を正当に理解できるようになれば、無駄な医療裁判も減少するはずだと思われるからです。
当然ですが、多くの医療裁判の中には、到底医療過誤とは言えないものまで含まれていると思います。患者側の弁護士がもっと医学に精通すれば、訴えるべき案件と訴えるべきではない案件の振り分けが適切にできるようになるはずです。そうすれば、法曹関係者(特に、患者側の弁護士)に対して向けられた医療関係者の不信感を払拭することができ、鑑定医も安心して裁判に関与できるようになると思います。 この学会が、法曹関係者の専門性向上と、患者側・医療機関側の信頼関係構築に微力ながら貢献できればと願ってやみません。